とある街を治める中流貴族が翌日の新聞記事を通して街中を震撼させたのは、
ある冬の、淡雪が降りしきる夜のこと。
一家惨殺の、その夜のこと。
回廊に灯されていたランプの光は絨毯を赤黒く焼きつくし、煙が屋敷に走った。
響き渡る怒声、悲鳴。何かが破壊され、割れる音。
人々が恐怖と混乱から逃げまどい、けれども誰も逃げることができない。
エントランスへ続く階段には燃え盛る炎が行く手を遮り、
外へとつながっているはずの窓は何らかの形でふさがれている。
絢爛豪華な調度品の数々はなぎ倒され、破壊され、炎をより強く輝かせる薪でしかない。
まるでこの世の終わりを見ているかのような状況の中、二人の男女が闇にまぎれて地下階段を駆け降りる。
「兄さん! 待って! 父さんと母さんがまだ上にいるのよっ!?」
惨状の中を駆け抜けてきた少女の青いドレスは破け、焼け焦げ、汚れていた。
彼女の手を握ってなおも走り続ける青年の服も同じ有様で、
逃げる途中で怪我をしたらしい場所からにじみ出た血液が白いシャツを染め抜いていた。
「イェリカ! 父上と母上は殺されたんだ。奴らは私たちも狙っている!
一刻も早くここから逃げ出さなければ、私たちとて無念のまま死ぬことになるんだっ」
イェリカと呼ばれた少女は、紺色の髪を振り乱し、水色の瞳に涙を浮かべて懇願した。
「嘘よっ! そんなの嘘だと言って…! どうしてこんな!!!」
悲鳴を上げるかのような悲痛な叫びに、兄リゼルは堪えるように唇をかみしめて
それでも屋敷から抜け出すための唯一残された出口を求めて走り続けた。
十分な明かりもない通路にいつ奴らが追い付いてくるかわからない恐怖。
リゼルは見ていた。金色に光る、その瞳で。
両親が殺された、その瞬間。暗殺者のその顔を。
「なぜ我らが謀反の疑いなど…!!!!」
淡雪が降りしきる夜のこと。中流貴族の一家が惨殺された。
当主とその妻、その息子と娘、屋敷につかえていた使用人の命が一夜にして奪い去られたのだった。
「…はぁ…」
ラストネルはため息をついた。
雪景色を温かな部屋の中から眺めながら、組んだ足を入れ替える。
もう何度そうして不毛な時間を過ごしているのだろうか。
暖炉の薪が爆ぜる音がなぜだか物思いに誘わせる。
冷めてしまった紅茶に手を伸ばし、そっと含むと苦みだけが口に残ってしまった。
友人のリゼルがボロボロの姿で妹のイェリカとともに屋敷に駆け込んだ頃のことを思い出したのだ。
『ラスト、一生の頼みがある。事情は知っているとは思うが、どうか聞き入れてほしい。
イェリカだけでも助けてくれお願いだ』
押し出されるようにしてラストネルの目に飛び込んできたイェリカは頼るべきものを持ちえない、
真冬の中に孤独に咲く小さな青い花のようだった。
イェリカの保護を取り付けたリゼルは、二人の制止の声も聞かず、吹雪の中に消えていったのだった。
―コンコンッ。
ラストネルが「どうぞ」と声をかけると一人の青年が入ってきた。
「…ルカ…」
中性的な線の細さ、儚げな印象を与えるその青年は、男性にしては小柄であった。
パールブルーの上着を羽織り、紺色の髪は肩の長さ程度で軽やかに梳かれている。
水色の瞳がこの青年の孤独を映しているようだった。
「ラストネル様、ようやく突き止めました! 惨劇の夜の首謀者がだれか」
怒りと憎しみと復讐心だけを激しく宿した彼には、狂気じみた喜びさえ感じられた。
彼が思い描く未来を現実とするためだけに、彼は剣を握り己のすべてを復讐につぎ込んだ。
近くでその姿を見ていたラストネルに、いったい何ができただろうか。
限界まで絶望し傷ついた心がラストネルの献身的なふるまいによって回復していくうちはよかった。
けれども再構築された砕けた心はいつしか歪な形へと変貌を遂げてしまったのだ。
復讐するため、仇を取るためにルカの心は自ら歪んでしまった。
その歪みにこそ、自分が生き残った意味を見出そうとさえしていた。
ルカが頑なに生きる意味を見出そうとしている姿に、ラストネルはおのれの無力さを知った。
ルカがラストネルのもとで過ごした6年間。ルカは見た目にはまっすぐに成長していった。
剣の腕も磨き、学問を治め、若々しい生命力に満ち溢れていくルカをラストネルはいつの間にか
一人の人間として見つめていたのだった。
「今の君ならきっと誰もが望むもの全てを手に入れるだろうに、
君は今でも、あの夜に囚われているんだね」
「…そうです。
この6年間私が何を思ってここまで来たのかおわかりのはずでは…?」
自ら抑え込んだ低音の声で話すルカの瞳は滾る復讐心でぎらついていた。
ラストネルはそれを視認すると、かけていたソファからおもむろに立ち上がり、
微かに冷気が感じられる窓際へと移動し、ルカと距離を置いて言った。
「おれが手に入れられないのは、君の心かもしれないな」
皮肉げに寂しく苦笑しながら切なげにルカに視線を送り、すぐにそらした。
ラストネルが言わんとしていることを察したルカは、声色を変えて透き通る声で答える。
「…。ラストネル様…。あなた様をお慕いしています。
けれども復讐を糧に生きていた私には、そんな想いさえ許されないのです」
「ル……いや、イェリカ。おれは君の兄に君を生涯守ると誓いを立てた。
大切な友人の妹君である君を危険にさらすことは誓いを反する」
「そんなことをいわないで。
この先の危険の中にこそ、私の望んだ現実へと至る道があるというのに」
二人の心はお互いが相手への愛を宿しているにもかかわらず、つかず離れずを繰り返していた。
想いが成就したとしても、そうでなかったとしても、きっとどちらも辛くなる恋だった。
だからこそ二人は愛をささやくことをしなかった。
触れたいと願う心を無理やり押し込め、それでもラストネルはイェリカに歩み寄る。
頬を捉えて口づける代わりに、そっと悲しみをたたえたイェリカの瞳にかかる前髪をひと房、指に掬った。
「本当におれは無力な男だ。君をあらゆるものから守ることしかできないらしい…。
口づけさえも、戸惑うくらいに…」
己のイェリカへの想いを託すように前髪に優しく口を落とす。
まるで洗礼を受ける儀式であるかのようなそのラストネルの行為。
凍り、歪んでしまったはずの心が激しく揺さぶられ、ラストネルを慕う心が溢れだしていく。
生存理由と切なく苦しい恋情の中で戸惑いながらも、髪の先から伝わるラストネルの口づけが
心震えるほどに幸福に感じられ、イェリカは静かに涙を流した。。。